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1: 砂漠のマスカレード ★ 2019/11/19(火) 19:52:50.75 ID:7BoYxV999
落合博満といえば、即座に“オレ流”と返ってくるほど野球ファンにはおなじみの代名詞だが、そのルーツは「8回退部した」という伝説のある高校(秋田工)時代まで遡ることができる。
そして、ロッテのルーキー時代も当然オレ流だった。
社会人の東芝府中で頭角を現した落合は、1978年に全日本の3番として世界選手権に出場するなど、24歳の遅咲きながら、アマ球界屈指の強打者として注目され、同年のドラフトでロッテに3位指名された。
担当の城之内邦雄スカウトは、巨人時代に“エースのジョー”と呼ばれた名投手で、変化球に強く、外角球を右中間に飛ばす落合が「投手にとって嫌なバッター」だったことが決め手になったという。
落合も無口で朴訥な城之内に好感を抱き、「ワシもロッテも賭けに乗ったんだね。だから、ダメでもともとと気軽に思って入ったんだよね。
野球がダメでもこの世の中、いろんな職業があるんだもの。何やってもメシくらいは食べていけるからね」(岡邦行著『プロ野球これがドラフトだ!』 三一書房)と、これまたオレ流らしい動機のプロ入りだった。
そして、結果的に自由度の高い球団・ロッテに入ったことが幸いする。実は、落合は77年のドラフトで阪神が獲得を約束しながら指名漏れ。
翌78年も巨人が指名するはずだったのに、江川卓の“空白の一日”事件により、ドラフトをボイコットした結果、指名できなくなったエピソードも知られている。
もし、阪神や巨人に入団していたら、アッパースイングのフォームを無理矢理矯正され、おそらく、その後の落合はなかっただろう。
ロッテでも入団早々、山内一弘監督から「お前のフォームじゃ、インコースが打てないから、プロは無理だなあ」と矯正を命じられたが、
「やってもみないうちから、そんなことわかるものか。どうせダメなら、自分の好きなようにやっていこう。
生まれつきの打法が、急に直るもんじゃないから、あくまで自分流でいこう」(自著『なんと言われようとオレ流さ』 講談社)と、あくまでオレ流を貫く
通算2271安打、396本塁打を記録した“打撃の職人”で、“教え魔”の異名もとる山内監督の言うことに耳を貸さないのだから、ルーキーイヤーは当然のように2軍スタート。
最初は打球が全然前に飛ばず、ファームの試合でも5打席連続三振を喫するなど、“プロの壁”にぶち当たった。だが、オレ流を変えるつもりは毛頭なかった。
そんな苦闘の日々にあって、4月17日のイースタントーナメント1回戦、巨人戦(後楽園)では、打順も5番から4番に昇格。
プロ初登板初先発の江川から初回に中越え先制タイムリー二塁打、3回に左前安打と2打数2安打1打点を記録。江川降板後にも2安打を放ち、6打数4安打2打点の大当たりだった。
“江川を痛打した男”は、5月29日の南海戦(川崎)で代打として1軍デビューを果たし、同31日の南海戦でプロ初本塁打を記録。
7月21日のジュニアオールスター(横浜)でも全イ軍の4番として4打数3安打1打点をマークし、打撃賞を獲得したが、1年目の1軍成績は打率2割3分4厘、2本塁打に終わった。
翌80年も開幕直前のオープン戦で左足を負傷し、2軍スタートとなった落合は、26歳という年齢もあり、モチベーションが下がりかけたが、5月14日の大洋戦(等々力第二)が2年目の飛躍への大きな転機となる。
大洋の先発は、南海時代にリリーフエースとして活躍した佐藤道郎。
右肩を痛め、2軍で調整中ながら、切れのある球で格の違いを見せつけ、
ロッテ打線を6回まで3安打1失点に抑えたが、唯一の失点が、2回に落合に浴びた一発だった。
現役最終年で力が衰えていたとはいえ、「一流の投手」から本塁打を打つことができた落合は「佐藤さんのような投手と毎試合対戦できる1軍に上がりたい」と前向きな気持ちを取り戻す。
この本塁打こそが「落合博満の原点」となり、同31日の巨人戦(会津若松)から6月7日の日本ハム戦(等々力第二)までイースタン新の5試合連続本塁打を記録。
7月の後半戦から1軍に定着した落合は、打率2割8分3厘、15本塁打の成績を残した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191119-00000028-sasahi-base
11/19(火) 16:00配信
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