転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1590109229/
1: THE FURYφ ★ 2020/05/22(金) 10:00:29.80 ID:POLUk2YA9
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で夏の甲子園大会並びに地方大会が中止になった。都道府県の高野連の判断で
独自の地方大会は開催される方向だが、センバツに続き、夏の甲子園の舞台までなくなり、球児たちは大きなショックに
包まれている。巨人OBでヤクルト、西武で監督を務めた”大御所”広岡達朗氏(88)が、そんな球児と、高校野球界へ
メッセージを送った
日本高野連が下した中止の決断に対しての広岡氏の第一声は、「新型コロナウイルスを何とか殺さない限りスポーツはできない。
会社がつぶれ、失業者が生まれている情勢では、世論の理解は得られないだろう。球児たち、特に3年生の無念の心情は
痛いほどわかるが、中止になるのは、仕方がないことだ」というものだった
たとえ無観客であっても全国から球児が甲子園に移動、最大2週間にわたって集団で宿泊することには大きな感染リスクがある。
さらに49校の代表を決める地方大会も中止になった。39県では14日に緊急事態宣言が解除、21日には大阪、兵庫、京都でも
緊急事態宣言が解除されたが、地方大会には、約3800校、約15万人の球児が参加、約250球場で開催される。地域によっては
医療体制の逼迫の影響で球場待機の医療スタッフを配備できない可能性や、夏休みの短縮により、授業が大会期間に重なり、
学業に支障が出る可能性もある。地域の公平性にも欠き中止はやむをえないだろう
ただ、3年生の救済措置として都道府県ごとの独自の地方大会開催は「自主性にお任せしたい」(高野連・八田英二会長)との
方針で認められた。高野連は、球場使用料などの経費の補助や感染予防に関する助言をしてサポートするが、「こうして欲しい、
こうして欲しくないとは言わない」(八田会長)と、問題が起きたときの責任は、各地方の高野連に押し付けた
「ようするに上に立つ人間(高野連)が中止を決めたものの、そのフォローなど、何をやっていいのかわからんのだろう。誰も責任を
取ろうとしない。この姿勢はいかがなものか」
広岡氏も、高野連の決断は支持したものの、まだ「終わっていない夏」に対する高野連の姿勢は問題視した。
その上で、春のセンバツに続き、夏の甲子園もなくなり絶望にくれる球児たちにこんなメッセージを送った
「高校生、高校野球の本質とは何か。学びだ。今回は、その本質について向かい合い、真剣に考えるチャンスではないか。
これからの人生の方が長いのだ。甲子園が人生のすべてではない。選手たちは、つらいだろうが、気持ちを切り替えることだ。
このピンチは、これから先の自分の人生を考えるチャンスである。逆境を乗り越えることで精神的に強く立派になれる。
今こそ勉強をすればいい。甲子園に出るためだけに私立の学校へ越境入学してきた選手も少なくないだろう。彼らは、今後、
大学、社会人、もしくはプロへ進むのかもしれない。どの道へ進むにしろ、野球バカではいかん。勉学が大切になってくる。
その機会を得たと考えればいい。そして、その今すべきことは何か、大切なものは何かを監督、コーチ、部長先生ら、
高校野球の指導者がしっかりと教えること。高野連は、その責任を曖昧にしているが、指導者には、子供たちに、その道筋を
しっかりと示す責任がある」
甲子園至上主義へのアンチテーゼを含んだ主張だ。
広岡氏も、呉三津田高校時代、西中国大会の決勝に進出したが、自らのエラーもあって山口の柳井高校に逆転負けして
甲子園の土は踏めなかった。その悔しさから勉学に励んで早大へ進みプロへの道を切り開いてきたという経験がある
「プロを目指す選手は不安なのかもしれないが、甲子園がなくともプロのスカウトはちゃんと素材を見ている。昔からそうだった。
まして情報網の発達している現代ならなおさらだ。古い話で恐縮だが、稲尾も甲子園に出ずに大投手になった。プロで成功する
条件は甲子園ではない。出たいと頑張った努力なのだ」
広岡氏が例に出したのは「鉄腕」と評された276勝のレジェンド、故・稲尾和久氏。大分県立別府緑丘高校時代には
甲子園出場機会はなく、まったくの無名だったが、1956年に西鉄ライオンズに入団し、高卒3年目の1958年には33勝し、
巨人との日本シリーズでは、7試合中6試合に登板して4試合に完投し、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれるまでの名投手となった
「甲子園の代替案のアイデアは浮かばないが、苦難を乗り越えれば何かを得る」
こんな状況だからこそ、プロ野球界の大御所、先人の言葉に耳を傾ける必要があるのかもしれない
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200522-00010000-wordleafs-base
独自の地方大会は開催される方向だが、センバツに続き、夏の甲子園の舞台までなくなり、球児たちは大きなショックに
包まれている。巨人OBでヤクルト、西武で監督を務めた”大御所”広岡達朗氏(88)が、そんな球児と、高校野球界へ
メッセージを送った
日本高野連が下した中止の決断に対しての広岡氏の第一声は、「新型コロナウイルスを何とか殺さない限りスポーツはできない。
会社がつぶれ、失業者が生まれている情勢では、世論の理解は得られないだろう。球児たち、特に3年生の無念の心情は
痛いほどわかるが、中止になるのは、仕方がないことだ」というものだった
たとえ無観客であっても全国から球児が甲子園に移動、最大2週間にわたって集団で宿泊することには大きな感染リスクがある。
さらに49校の代表を決める地方大会も中止になった。39県では14日に緊急事態宣言が解除、21日には大阪、兵庫、京都でも
緊急事態宣言が解除されたが、地方大会には、約3800校、約15万人の球児が参加、約250球場で開催される。地域によっては
医療体制の逼迫の影響で球場待機の医療スタッフを配備できない可能性や、夏休みの短縮により、授業が大会期間に重なり、
学業に支障が出る可能性もある。地域の公平性にも欠き中止はやむをえないだろう
ただ、3年生の救済措置として都道府県ごとの独自の地方大会開催は「自主性にお任せしたい」(高野連・八田英二会長)との
方針で認められた。高野連は、球場使用料などの経費の補助や感染予防に関する助言をしてサポートするが、「こうして欲しい、
こうして欲しくないとは言わない」(八田会長)と、問題が起きたときの責任は、各地方の高野連に押し付けた
「ようするに上に立つ人間(高野連)が中止を決めたものの、そのフォローなど、何をやっていいのかわからんのだろう。誰も責任を
取ろうとしない。この姿勢はいかがなものか」
広岡氏も、高野連の決断は支持したものの、まだ「終わっていない夏」に対する高野連の姿勢は問題視した。
その上で、春のセンバツに続き、夏の甲子園もなくなり絶望にくれる球児たちにこんなメッセージを送った
「高校生、高校野球の本質とは何か。学びだ。今回は、その本質について向かい合い、真剣に考えるチャンスではないか。
これからの人生の方が長いのだ。甲子園が人生のすべてではない。選手たちは、つらいだろうが、気持ちを切り替えることだ。
このピンチは、これから先の自分の人生を考えるチャンスである。逆境を乗り越えることで精神的に強く立派になれる。
今こそ勉強をすればいい。甲子園に出るためだけに私立の学校へ越境入学してきた選手も少なくないだろう。彼らは、今後、
大学、社会人、もしくはプロへ進むのかもしれない。どの道へ進むにしろ、野球バカではいかん。勉学が大切になってくる。
その機会を得たと考えればいい。そして、その今すべきことは何か、大切なものは何かを監督、コーチ、部長先生ら、
高校野球の指導者がしっかりと教えること。高野連は、その責任を曖昧にしているが、指導者には、子供たちに、その道筋を
しっかりと示す責任がある」
甲子園至上主義へのアンチテーゼを含んだ主張だ。
広岡氏も、呉三津田高校時代、西中国大会の決勝に進出したが、自らのエラーもあって山口の柳井高校に逆転負けして
甲子園の土は踏めなかった。その悔しさから勉学に励んで早大へ進みプロへの道を切り開いてきたという経験がある
「プロを目指す選手は不安なのかもしれないが、甲子園がなくともプロのスカウトはちゃんと素材を見ている。昔からそうだった。
まして情報網の発達している現代ならなおさらだ。古い話で恐縮だが、稲尾も甲子園に出ずに大投手になった。プロで成功する
条件は甲子園ではない。出たいと頑張った努力なのだ」
広岡氏が例に出したのは「鉄腕」と評された276勝のレジェンド、故・稲尾和久氏。大分県立別府緑丘高校時代には
甲子園出場機会はなく、まったくの無名だったが、1956年に西鉄ライオンズに入団し、高卒3年目の1958年には33勝し、
巨人との日本シリーズでは、7試合中6試合に登板して4試合に完投し、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれるまでの名投手となった
「甲子園の代替案のアイデアは浮かばないが、苦難を乗り越えれば何かを得る」
こんな状況だからこそ、プロ野球界の大御所、先人の言葉に耳を傾ける必要があるのかもしれない
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200522-00010000-wordleafs-base
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